悪い夢

 これは夢だ。
そうでなければ、この景色の説明がつかない。

目の前には変わり果てた街の眺めが広がっている。
最初は空爆に遭った街なのかと思った。
建物はことごとく焼け落ち、景色の端々に炎がくすぶり、黒煙をあげている。
溶けかかった鉄骨と焦げついたコンクリートが虚空に晒され、無力な形をむき出しにしている。
分厚い煙と雲に覆われた空が、地上の惨状をうつして赤く染まっていた。
炎に蹂躙しつくされた街はどこまでも赤黒く澱み、果てがないように思われた。

バゼットは一歩を踏み出そうとして、自分の足がないことに気づいた。 

かつては栄えた街だったのだろう。
倒壊し、おびただしく散らばった瓦礫を火が舐めるように走り、天をも焦がす勢いで燃えあがっている。あまりの高熱に景色が歪み、ゆらゆらと揺らめいている。建物だけではなく人々も焼かれたに違いない。
ここには終末と絶望しか残っていなかった。
いまが朝なのか夜なのかもわからず、時間すら炎に灼かれ殺されてしまったかのようだ。人間のささやかな営みも望みも、すべてを焼きつくした炎はなお収まらず、残滓ですら容赦なく無へと帰そうとしていた。
惨状に目をふさぎたくても瞼がなく、轟音に耳を覆おうとしても手がない。
自分の身体がないのだ。
それなのに熱が皮膚に焚きつけ、火が神経を灼いてくる。
逃げ場を求めてさまよわせた目に赤い空が沁みた。

もし地獄と呼べる世界があるのなら、こんな景色なのかもしれないとバゼットは思う。
この惨状を前にして自分は何もできず、見ているしかできない。
破壊された街が自分の無力さとなってまざまざと迫ってくる。
あまりの恐怖に逃げだしたくなったが、脚も手もない自分には無理だった。
瞬きをしない瞳が、淡々と燃えあがる街を眺めている。

遠く、瓦礫をかきわける音が耳をつく。
さまよい出るようにあらわれた人物を認めてバゼットは声をあげそうになったが、声帯のない喉は沈黙したままだった。

遠目でもわかる。
あれは言峰だ。

見慣れた姿と印象が違うが、バゼットにはその理由がわからない。
この火災の最中をくぐり抜けてきたのか、言峰は襤褸布のような法衣を纏い、全身を煤と泥で汚している。
ここからでも無数に刻まれた火傷の傷口が見えた。無惨に崩れ落ち、火と熱に染まる景色の中、言峰の十字架だけは汚れず、おだやかな光を放っていた。
怪我を負いながら言峰の足どりはしっかりとし、大地を踏みしめながら歩いている。
バゼットは言峰の足もとから視点をあげていき、その表情に釘づけになった。

煙がたちこめ、陽炎がたちのぼる中、言峰は笑っている。

焼け野原をうつした目が煌々と輝き、火の粉のかかる頬が愉悦に歪んでいる。
天を求めながら闇に身を窶(やつ)すしかなかった言峰の、それは神々しいまでに悪辣な微笑みだった。
言峰の手がさしのべられ、悲劇を手中にするかのように握りしめられた。
いまだ燃えあがる火のなかを恍惚と歩く言峰は、まるでこの惨劇に生を得たかのように瑞々しく、力強く見えた。

たちこめる熱が寒気を呼ぶ。
言峰のあの表情をバゼットは何度も目にし、見慣れていたはずだ。その出所を理解し、身近に、かけがえのないものに感じていたはずだ。
なのに今は恐ろしさしか感じない。
たぶん、あの言峰は自分を知らないのだと解っているせいだろう。自分の知らない言峰が、自分の知らない場所で愉悦に浸っている姿に、いわれのない恐怖と嫉妬を感じているのだ。
心に火がついたかのように熱く、苦しい。
記憶を灼き、追憶を焦がしていく。
身をよじろうとしてももとから存在しない身体はどうにもならない。

言峰に気づいてほしかった。自分がここにいるのだと、言峰を見つけているのだと知ってほしかった。
せめてその顔を向けてくれれば、少しは救われる。言峰の渇望と歪みを受けとめ、救ってやれるのは自分しかいない。
手を伸ばそうとしてもできない。名を呼ぼうとしてもかなわない。どう足掻いても届かない苦しさと痛みに、気が違ってしまいそうだった。
言峰が背を向け、その姿が遠く、小さくなっていく。
炎に煽られた黒衣の裾が心を逆立てる。
拒絶に泣き叫びそうだった。止まって、行かないで、こっちを向いて―――奔流となった言葉は形にならないまま、燃えさかる火に殺されていく。
崩れた瓦礫から吹きあがった炎が、言峰の後ろ姿を完全にかき消した。

あらん力を振り絞って、バゼットは悲鳴をあげる。
目尻からこぼれた涙が地面に落ち、灼熱に土煙をあげる。
どこか遠くで自分が身をしならせ、声をあげるのを感じていた。

つづく

 

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