悪い夢

「―――バゼット」
 瞼を開くと、夜があった。
 身体が汗ばみ、呼吸を荒げていた。
 全身に力が入り、心臓が飛び出さんばかりに鼓動を打っている。シーツを握りしめた手が震え、縛りつけられたように身体が動かなかった。
 赤々とした残像が暗闇に冷えていく。拡散していた焦点が合うと、隣にいた言峰が自分の顔を見下ろしていた。昨晩も隣で身を寄せあって眠りについたのを思い出す。いつもと変わらない、普段どおりの姿に身体の奥底から溜息がついて出た。
「大丈夫か」
 手もとの明かりが灯され、見慣れた眺めが浮かびあがる。シーツをつかんでいた手を言峰がほどいてくれるのと同時に恐怖にこわばっていた身体が解けていき、いかに夢の残滓に縛られていたかを思い知った。
「悪い夢でも見たか。魘(うな)されていたようだが」
「夢……ひどい夢」
 こちらが現実だとわかっているのに、まだ火が瞼の裏にまぎれこみ、余韻をくすぶらせている。やはり夢で良く、夢でなければならなかったのだ。人も時間も死に絶えた街で、背を向けて去っていった言峰の姿が、喉元に苦々しくつかえている。
「怖い思いをしたようだな」 
 うなずくと言峰の手が額にかかり、汗を拭ってくれた。
 バゼットは無言のまま言峰を見つめる。言峰の顔は明かりに照らされて、深い陰影が刻まれている。厳しくも優しい表情だと思った。
 夜の憂いを残した目に自分がうつりこんでいる。闇にとりこまれた自分の姿形が見える。夢の中では自分の欠片すら感じられなかったせいで、慣れたはずの眺めにも安堵を覚えた。
 手を伸ばして頬に触れ、その感触を記憶と合一させていく。ぬくもりを持つ肌、癖のある髪、力と意思を秘めた瞳、そのひとつひとつを確認しながら、悪夢の後味を追い払う。
 あれは現実の出来事ではないと思おうとした。だが火に灼かれ熱風に溶かされる生々しい感触はすでに夢の域を超えていて、あの光景は言峰の過日をうつした情景なのだという、直感にも似た確信が芽生えている。破壊された街と言峰の凄惨な表情は今思い出しても身震いを覚え、現実だと認めるのはひどく怖かった。
 肌に指を這わせ、言峰の目をじっと覗きこむ。
「綺礼」
 名を慈しみ、名を呼べる喜びを噛みしめながら呼びかける。言峰が目で応えてくれるのがわかった。
 あの光景を口にしようとして、迷い、言いよどむ。やはり、恐怖と嫉妬を圧してまで言峰に真実を訊ねる勇気はなかった。
 投げかけられた明かりが言峰の素肌をぼんやりと照らし出している。言峰が傍にいて自分を見ていてくれる、この眺めが夢でなく現実でよかったと心の底から思う。
「……綺礼」
 二度目の呼びかけは独り言に近い。一向に話題をつづけない自分を不審がりもせず、言峰は枕に頬杖をついて宥めるように頭を撫でてくれる。視線が忍び入ってきて、火の残像が心を舐めるような錯覚にとらわれた。そんなはずはないのに、自分が見ていた夢を言峰に知られているのではないかという疑心に駆られた。
「眠れそうか」
 バゼットは首を横に振る。眠気が吹き飛んでしまったのはもとより、もう一度眠ってふたたびあの夢を見てしまうのではないかという恐怖が先に立っていた。
「今、何時ですか……」
 言峰が身を起こして照明の下に置いてある腕時計を見やり、
「三時」
 納得したような意外なような複雑な気分だった。眠ってからそんなに時間は経っていないのに、現実が懐かしく思えるほどの錯覚と疲れがある。長すぎた架空の時間と色が重さとなって身体にのしかかっている。
「私はそんなに魘されていましたか」
 言峰が頷いてから、何かを思い出したのか微かに笑い、
「私の名を呼んでいたな」
 言峰の表情を見るに、自分は眠りながら懸命に声をあげて名を呼んでいたのだと思う。自分の必死な姿を想像すると恥ずかしくて目をそらしてしまう。夢のなかにいた言峰が自分に気づいたところでどうにかなるものではないが、それでも自分がいるのだと知ってほしかったのだ。
 バゼットは言峰がたまに見せる、遠くを眺める目つきを思い出す。深い迷宮に入りこんだような、自分には決して手の届かない目つき。あの瞳の裡に自分がいないのが悔しくて、わかってはいるのに拗ねた態度をとったり僻んたりしたものだ。そのたびに言峰は自分を煙に巻き、うまい具合になだめすかし、自分も構ってもらえるのが嬉しくてそれ以上は考えていなかった。
 よく言峰は昔を思い出すと言っていた。みずからが経てきた葛藤と渇望の長い道程を、そして一度は背を向けた道を仕方がないとわかっていても思索し、辿ってしまうのだと。
 夢のなか、言峰の黒衣に降りかかっていた火の粉を思い出す。いまだ心のなかに輝くそれは、悲痛なまでに美しかった。
 もしあれが言峰が実際に通ってきた過去だとしたら。
 自分の見通しと認識の甘さを承知していたつもりでも、まだ足りなかったのだと思い知った。言峰を理解したいという欲を持つことはすなわち、自分の恐怖や嫉妬とも向きあい、超えていかなければならないのだ。
 強くなろうと思う。言峰のすべてを受け止められるように、どのような苦楽も共にしていけるように。
「どんな夢を見た」
 言峰の問いにバゼットは何と答えればいいのか迷う。内容よりも、火の感触や生々しさのほうが印象強く、それでは質問に対する答えにはならない。
「貴方がいて、私が追いかけていて……それ以外はよく覚えていません」
 言峰が身体を動かし、上からまっすぐに見下ろされる格好になった。顔に深く刻まれた陰影が、垂れ下がった髪とあいまって心に重くのしかかってくる。言峰の面持ちは変わらず優しいのに、目が逸らせなくなった。
「街が燃えていたのだろう」
 思わず目を見開く。
 なぜそれを言峰が知っているのかという疑問よりも、やはり現実だったという納得のほうが先に立ち、つられて夢の恐怖があざやかに蘇ってきた。
「私はおまえに気づかなかった。見えていないのだから無理もあるまい」
 静かな声に、遠ざかっていた動悸が戻り眩暈を呼び起こす。速くなる鼓動に反して血の気が引いていき、先端から冷えていく。
 目の前の言峰と夢の言峰の姿が重なって見えた。火の海をひとりで歩いていた孤高の姿。
「どうして……」
 蒼白になった自分の表情に満足したのか、そこで言峰は口端をあげてみせ、
「おまえが譫言で喋っていたのを聞いた。火が酷いとも、私に行くなとも言っていたな」
 バゼットは何度も目をしばたく。肩の力が抜け、あがりかけていた頭が枕に沈んでいく。夢を見られたわけではないという安堵と、悲痛な嫉妬と望みを聞かれていたという羞恥に手で頬を覆った。
「驚かさないでください。てっきり私は、夢を知られていたのかと……」
「驚いたのはこちらの方だ。譫言の上に悲鳴まであげて何事かと思ったぞ。起こしてやらなければどうなっていたかわからん」
 つまり夢の中で発せずにいた言葉を、自分は寝言で口にしていたのだろう。掌で覆われた頬が急激に熱を帯びていく。できることなら顔を背けてしまいたかったが、言峰に身体を押さえこまれていてかなわなかった。
 頬に置いた手を言峰につかまれる。そのままシーツに押さえつけられ、乱雑にくちづけられた。つかまれた手の痛みと言峰の熱の甘さに、羞恥も思惑もおし流されていく。
「綺礼……」
「私まで眠れなくなっただろう。責任をとれ」
 いちど離れ、ふたたび重なりあう。
 指と吐息が絡みあい、奮ぶりへと縺れこんでいく。痛いまでの言峰の力が否応なしにのしかかり、身体の芯に新しい熱を植えつける。
 つと身体をあげて見おろしてきた言峰の瞳は、真摯さの奥に見慣れない色がひそんでいた。夜に閉ざされた漆黒。バゼットには手の届かない過去をうつし、遠くを見ている時の目だった。
「正直に言ってみろ。おまえはどこにいた」
 自分を問いつめる言峰の表情には濃い闇が貼りついている。沁みいってくる低い声に感覚を撫であげられ、陶酔に拍車がかかった。
「見たことのない街です。何もかも燃えつきた焼け野原だというのに、まだ火があがっていて、みな死に絶えて……怖かった」
「私はどうしていた」
 核心の問いに恥ずかしさを思い出してバゼットは口を噤んだ。頬にくちづけられた感触に、心にあった最後の砦が脆くも崩されていく。
 言峰の手が胸に触れてきて、息が荒くなる。その手に乱され、その姿に溺れていく。言峰の舌が首筋へとなぞり落ちていき、甘い寒気に全身がわなないた。
「……廃墟を歩いていました」
 瓦解した自分の声は興奮にうわずっていた。
「愉しそうな顔をしていました。必死で追いかけたのに追いつけなくて、貴方は私に気づかないまま去ってしまった」
「どう思った」
 耳朶を噛まれ、溜息を洩らしてしまう。
 声と手の重圧に逆らえず、何をされても従うしかできない。さらけだした自分の心と言葉を餌にし、さらなる加虐を欲している。
「つらい思いでした。すごく悔しくて、寂しかった」
 肌に触れた言峰の手は火のように熱く、烈しい欲と深い渇望となって、バゼットを翻弄していく。
 胸を責め立てられて身をよじった。思わず声が洩れる。無言のまま自分の乱れぶりを見つめている言峰の瞳が、よけいに興奮へと追いやっていく。
 陶酔に落ちていく感覚が火災の余韻にゆらめいている。景色を覆っていた黒煙のようにたちのぼり、疑問を揺らす。
 脚にかかった言峰の手ざわりをバゼットは呆然と感じていた。
「綺礼、あの火災は―――」
 なんの前触れもなく分け入ってきた熱い感触にバゼットは身をすくめて背を反らす。後につづくはずだった、夢が真実だったのかという問いが吐息に消えた。
 荒くなった呼吸の下から見あげると、言峰はおだやかに微笑んでいた。こちらの髪に手を入れ、現実を確かめるように梳いてくれる。
 その仕草に、自分の見た夢が言峰が通り過ぎてきた景色であったのだと、バゼットははっきりと悟った。おそらくは言峰を変え、いまだその心に棲みつづけ、様々な色をにじませている曠野の眺め。
 髪を梳く言峰の手が途中で止まり、
「もう望むべくもないが」
 遠い目が、かつて手に入らないと嫉妬したその瞳が、自分だけを見ている。
 バゼットはふたたびこみあげてきた熱を感じた。自分が知らない過去への嫉妬も、炎への恐怖ですら慟哭に姿を変え、言峰を求める情欲になっていた。
「おまえがいたら、どうなっていただろうな」
 言峰の手がそっと頬を包んでくれる。そのあたたかな感触と言峰の思慮に、涙が出そうになった。
 陶酔の渦から、バゼットはひとつの仮定を見いだす。死と終焉のひろがる景色を歩きながら言峰は、愉悦の奥底で自分とおなじような後悔と辛苦を味わい、誰かの手を待っていたのかもしれない。
 奥底を抉られ、痺れに耐えられずあげた声が、言峰の唇に殺される。
 たまらなくなり、バゼットは手を伸ばして言峰の顔に触れた。その感触を腕に抱き、何度もくちづけをくりかえす。譫言のように呼ぶ名も、いまは目の前にいる言峰が受け止め応えてくれる、その実感が嬉しかった。
 言峰に深く身を委ねながらバゼットは心の奥に揺らぐ火を見る。
 炎の残像が、求めあう互いの欲とともに身を焦がしていった。

 終
inserted by FC2 system